「え、これ3万円もするんですか」
店頭で胡蝶蘭の値札を見たお客様から、ほぼ毎週このひと言をいただきます。
気を悪くされているわけではなくて、単純に驚かれているのだと思います。
花束なら5,000円も出せばかなり立派なものができるのに、鉢に入った花がその6倍というのは、確かにすぐには飲み込めない話です。
フラワーショップで働きながら、胡蝶蘭を仕入れて、包んで、お客様のもとへ送り出す日々を送っています。
値札の数字がどうやって積み上がっているのかは、仕入れ伝票を毎週見ている立場としてだいたい把握しているつもりです。
この記事では、その内訳を隠さずに書きます。
生産者さんの温室で何が起きているのか、そこから店頭に届くまでに何のお金がかかっているのか、そして「安い胡蝶蘭」は買っても大丈夫なのか。
読み終わる頃には、値札の3万円が「高い」ではなく「そういう積み上げなのか」に変わっているはずです。
目次
まず結論から。胡蝶蘭の値段はどのくらいが「普通」なのか
理由の話に入る前に、相場の地図を持っておいたほうが読みやすいと思います。
ここは簡単に済ませます。
サイズと本数で決まる価格帯
胡蝶蘭の値段は、花の大きさ(大輪・ミディ・ミニ)と、鉢に立っている花茎の本数でほぼ決まります。
日比谷花壇が公開している法人向けの相場表では、おおよそ次のような価格帯が示されています。
| 種類・本数 | 価格の目安 |
|---|---|
| ミディ胡蝶蘭 | 3,500円〜30,000円 |
| 大輪2本立ち | 20,000円〜 |
| 大輪3本立ち | 30,000円〜 |
| 大輪5本立ち | 50,000円〜 |
| 大輪5本以上 | 100,000円〜 |
本数が3本から5本に増えると価格が1.5倍から2倍になるのは、単純に「花茎が2本増えた」だけの話ではありません。
5本の花茎をきれいに揃えて咲かせられる株は、そもそも生産数が少ないからです。
贈るシーンごとの予算の目安
用途別だと、取引先への開店祝いや開業祝いで1万円から3万円、社長就任のお祝いで2万円から5万円あたりが中心です。
移転祝いは3万円から5万円で選ばれる方が多い印象があります。
実際に店頭でいちばん動くのは、大輪3本立ちの3万円前後です。
迷われたお客様に「無難なところですと」とご案内するのも、たいていこの価格帯になります。
1万円を大きく切る大輪には、必ず理由がある
逆にいうと、大輪3本立ちで1万円を大きく下回っている商品には、必ず何かしらの事情があります。
悪いこととは限りません。
ただ、その事情を知らずに買うと、届いた鉢を見て「思っていたのと違う」となりがちです。
この話は記事の後半でくわしく書きます。
理由その1:花が咲くまでに3年から4年かかっています
胡蝶蘭が高い理由を1つだけ挙げろと言われたら、私は迷わず「時間」と答えます。
フラスコの中の小さな苗から始まる
胡蝶蘭は種から育てる植物ではありません。
親株の成長点を組織培養で殖やす、メリクロンという方法でつくられた苗が使われます。
最初はフラスコの中の、指先ほどの小さな緑の塊です。
そこから鉢を少しずつ大きくしながら植え替えを繰り返し、開花できる大きさの株になるまでにおよそ2年。
そのあと温度を下げて花芽を出させる作業をして、実際に花が開くまでにさらに半年前後かかります。
苗づくりの期間まで含めると、店頭に並ぶ一鉢は生まれてから3年から4年たった株です。
宮川洋蘭のように栽培工程を公開している生産者のサイトを見ると、この年数がかなり具体的に書かれています。
胡蝶蘭は種から出荷まで何年かかる?というページには、フラスコ苗から出荷までの流れが写真つきで載っていて、私も新人の頃にずいぶん読み込みました。
「あと少し」で失敗しても、やり直しに何年もかかる
野菜なら、失敗しても次の作付けは数か月後です。
胡蝶蘭はそうはいきません。
3年目の株が病気で駄目になれば、その分の売上はまるごと消えて、代わりの株が育つのは3年後です。
生産者さんはこのリスクを見込んだうえで値段を決めています。
「保険料が乗っている」と言い換えてもいいかもしれません。
4年ぶんの温室代が、1鉢に乗っている
温室のスペースには限りがあります。
1鉢が4年間占有した面積ぶんの光熱費と管理費は、その1鉢が背負うことになります。
年間を通して温度を保つ必要があるので、この「4年ぶんの家賃」は決して小さくありません。
どのくらい小さくないのかは、次の章の数字を見ていただくのが早いです。
理由その2:胡蝶蘭は一年中「常夏の部屋」でしか育ちません
ここが、コストの話としてはいちばん重たいところです。
真冬でも、夜間18度を切らせない
胡蝶蘭の原産地は熱帯アジアの高温多湿な森です。
生育に適した温度は、おおむね18度から25度。
日本の冬にこの環境を再現するには、温室を暖め続けるしかありません。
しかも「昼だけ」では足りず、夜間も温度を保つ必要があります。
北風の吹く1月の深夜に、温室の中だけが常夏になっている光景を想像していただくと、燃料代の想像もつくかと思います。
燃料代は、この10年でおよそ1.8倍になった
ここは感覚ではなく、公的な数字があります。
農林水産省が施設園芸向けにまとめているA重油の価格推移(加温期間である11月から4月の平均価格)を並べると、こうなります。
| 加温期間 | A重油の平均価格 |
|---|---|
| 平成27年11月〜平成28年4月 | 66.5円/リットル |
| 平成29年11月〜平成30年4月 | 81.3円/リットル |
| 令和3年11月〜令和4年4月 | 107.5円/リットル |
| 令和5年11月〜令和6年4月 | 112.2円/リットル |
| 令和6年11月〜令和7年4月 | 119.5円/リットル |
10年ほど前の底値と比べると、おおよそ1.8倍です。
農林水産省の施設園芸等燃料価格高騰対策という補填の仕組みが動いているくらい、この上昇は生産現場に効いています。
同じ資料には、施設で花きを育てている経営体の平均的な収支も載っています。
令和5年の数字で、農業粗収益が2,229万円、経営費が1,852万円、手元に残る農業所得は376万円。
経営費のうち動力光熱費が285万円ですから、売上の1割強が電気と燃料に消えている計算です。
数時間の停電が、全滅につながる
冬の夜に暖房が止まると、温室の中の温度は一気に落ちます。
胡蝶蘭は低温に弱く、数時間の冷え込みで蕾が落ちたり、葉が傷んだりします。
だから生産者さんは非常用の発電機を備え、警報装置を入れ、夜中でも異常があれば駆けつけられる体制を組んでいます。
4年育てた株が一晩で駄目になる可能性を、設備投資で潰しているわけです。
その費用も、当然ながら一鉢の値段に含まれています。
理由その3:鉢物は、運ぶだけでお金がかかります
生産者さんの温室を出たあとにも、コストは積み上がっていきます。
重い、かさばる、そして寝かせられない
大輪3本立ちの胡蝶蘭は、鉢と用土を合わせると数キロあります。
高さは1メートル近く、花が横に張り出すので箱もかなり大きくなります。
そのうえ、花を傷めないように立てたまま運ぶ必要があります。
段ボールを積み重ねられないので、トラック1台に積める数が限られる。
切り花のように「たくさん詰めて安く運ぶ」ができない荷物です。
運賃と荷造りが、経営費の1割以上を占める
先ほどの農林水産省の統計をもう一度見ると、施設花き作経営の経営費1,852万円のうち、荷造運賃手数料が252万円です。
光熱費に迫る規模の支出が、包んで運ぶことに使われています。
近年の運送費の値上がりを考えると、この比率は今後もう少し上がるのではないかと思っています。
実際、私たちが取引している市場でも、この数年で送料の改定通知が何度か届きました。
需要が、一年のうち数週間に集中する
胡蝶蘭がもっとも動くのは、開店や就任、異動が重なる12月から4月にかけてです。
この時期は温室も物流もフル稼働になり、良い株から順に押さえられていきます。
需要が集中する時期は、当然ながら相場も強くなります。
逆にいえば、時期をずらせる方には安く買えるチャンスがあるということです。
理由その4:お店に並ぶまでの手間と、そこで乗る金額
ここからは、私たち花屋側の話です。
正直に書きます。
仕入れてからお渡しするまでの数日間も、温度管理が要る
胡蝶蘭は、店に届いたら並べて終わりではありません。
冬なら暖かい場所に置き、夏なら直射日光とエアコンの風を避けて、毎日様子を見ます。
うちの店では、胡蝶蘭を置くためだけに一角を空けています。
そこは他の商品を置けないので、店の家賃の一部を胡蝶蘭が使っていることになります。
売れ残りは、ほぼ全損になる商売
これがいちばんお伝えしたいところかもしれません。
胡蝶蘭は花もちがよく、うまく管理すれば1か月から3か月は咲いています。
それでも、蕾がすべて開いて数週間たった株は、贈答品としてはもう出せません。
値引きして売るか、店の飾りにするか、最終的には自分たちで引き取ることになります。
3万円で売る予定だった株が売れ残れば、仕入れ値がそのまま損失になります。
このロスを見込んで値付けをしているので、どうしても価格には余裕を持たせざるを得ません。
立て札、ラッピング、配送も金額に含まれている
お祝いの胡蝶蘭には、たいてい立て札がつきます。
社名や役職の確認、誤字がないかの読み合わせ、当日の配送手配。
花そのものとは別に、この事務作業に時間がかかっています。
配送も、時間指定や再配達の対応まで含めると、思っている以上に人手を使います。
「花代」だと思われている金額の中には、こうした手間賃が静かに含まれています。
3万円の胡蝶蘭、私の感覚で内訳を分解すると
厳密な原価計算ではなく、あくまで店頭にいる人間の実感としての目安です。
お店の規模や仕入れルートで大きく変わりますが、だいたいこんなイメージを持っています。
| 内訳 | 金額の目安 | 中身 |
|---|---|---|
| 生産者さんへの支払い | 1万2,000円〜1万5,000円 | 3〜4年ぶんの育成費、光熱費、設備費 |
| 市場手数料と輸送費 | 3,000円〜5,000円 | 競り、産地から店までの運賃 |
| 資材と作業費 | 2,000円〜3,000円 | 鉢カバー、ラッピング、立て札、梱包 |
| 配送料 | 2,000円〜4,000円 | 距離と時間指定による |
| 店の経費とロス | 残り | 家賃、人件費、売れ残りぶん |
数字だけ見ると、花屋がずいぶん取っているように見えるかもしれません。
ただ、そこから店の家賃と人件費を払い、売れ残った鉢の損失を埋めると、手元に残るのはごくわずかです。
花き業界全体でも、施設で花を育てている経営体の所得は売上の2割弱にとどまっています。
「高い」というより「安くしにくい」というのが、内側にいる人間の実感です。
安い胡蝶蘭は、買ってはいけないのか
ここまで読むと「じゃあネットで見かける1万円の胡蝶蘭は何なの」と思われるかもしれません。
結論からいうと、安いこと自体は問題ではありません。
安さの理由が説明できるお店なら、まず大丈夫
価格が下がる理由には、まっとうなものがいくつもあります。
- 生産者から直接届くので、市場と小売の手数料が乗っていない
- 実店舗を持たず、家賃と店頭の人件費がかかっていない
- 花の大きさがミディサイズで、そもそも育成期間が短い
- 輪数がやや少ない、または花茎がまっすぐ揃っていない規格外
産地直送は特に理にかなっています。
温室から直接送られるぶん、店を経由するより鮮度が良いことすらあります。
私が身内に贈るときも、産地直送を使うことがあります。
ちょっと気をつけたい安さのパターン
一方で、価格の理由がどこにも書かれていない商品は、少し慎重に見ています。
私が気にするのは次のあたりです。
- 商品写真がイメージ画像のみで、輪数や株の大きさが書かれていない
- 「大輪3本立ち」とあるのに、送料と立て札が別料金で、合計すると相場と変わらない
- 到着後の保証や、傷んでいた場合の対応が書かれていない
- 花の輪数が20輪を大きく下回るのに、3本立ちとだけ表示されている
大輪3本立ちの標準的な輪数は、おおよそ27輪から36輪です。
ここが極端に少ないと、写真で見た印象よりずっと寂しい鉢が届きます。
予算を下げるなら、本数よりサイズを見直す
限られた予算で見栄えを取りたいときは、大輪の本数を減らすより、ミディ胡蝶蘭に変えるほうが満足度が高くなります。
大輪2本立ちは、正直なところ少し寂しく見えます。
同じ2万円なら、ミディの3本立ちで輪数の多い株を選んだほうが、届いたときの華やかさは上です。
このあたりは、お店の人間に「予算はこれくらいで、できるだけ豪華に見せたい」と正直に伝えていただければ、その日の在庫から一番いい提案ができます。
予算のなかで満足度を上げる買い方
最後に、値段の仕組みを踏まえたうえでの選び方を書いておきます。
立て札とラッピングは削らないほうがいい
お祝いの胡蝶蘭で、贈られた側の記憶に残るのは立て札です。
誰から届いたのかがひと目でわかる状態にしておくことは、花の輪数を1つ増やすより意味があります。
数百円から千円程度の差なら、私は立て札にお金をかけることをおすすめします。
時期をずらせるなら、夏から秋が狙い目
繰り返しになりますが、12月から4月は需要期です。
株の質も価格も、この時期は売り手側が強くなります。
自宅で楽しむための一鉢なら、7月から10月あたりに探すと、同じ予算でひとまわり良い株に出会えることがあります。
夏の胡蝶蘭は避けられがちですが、輸送中の低温リスクがないぶん、実は状態よく届く季節です。
お店には「用途と予算」をそのまま伝えてほしい
これは花屋からのお願いです。
「開店祝いで、取引先に、予算は3万円」とだけ言っていただければ、あとはこちらで組み立てられます。
逆にいちばん困るのは「何かいい感じのものを」というご依頼です。
用途がわからないと、色も本数も立て札の書き方も決められません。
胡蝶蘭は、農産物と工業製品の中間のような商品です。
同じ「大輪3本立ち」でも、その日入荷した株によって表情が違います。
だからこそ、条件さえ伝えていただければ、その日いちばんの株をお出しできます。
まとめ
胡蝶蘭の値段が高い理由を、もう一度まとめておきます。
- 苗から花が咲くまでに3年から4年かかり、その間ずっと温室のスペースを占有している
- 一年中18度以上を保つ必要があり、燃料代はこの10年でおよそ1.8倍になった
- 鉢物は重くかさばり、立てたまま運ぶため輸送効率が悪い
- 売れ残りがほぼ全損になるため、価格に余裕を持たせざるを得ない
どれも、生産者や花屋が儲けたくて上乗せしている費用ではありません。
あの花を咲かせて、傷つけずに届けるために、どうしても必要になったお金です。
値札を見て「高いな」と思ったら、その一鉢が生まれてから4年たっていることを思い出してみてください。
毎日温度を見て、水をやって、蕾がつくのを待った人が、その向こうにいます。
そう思って眺めると、3万円という数字の見え方が少し変わるはずです。
少なくとも私は、仕入れ伝票を見るようになってから、胡蝶蘭に対して安いとも高いとも言えなくなりました。